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このページに関する議論
(spamが激しいので閉じました。--abee)

Monday, 15 November 2010, 10:39:20 pm
コメントありがとうございました。頂いたものを参考に,以下に清書してみました。--hide_naniman

Monday, 8 November 2010, 7:36:36 pm
McLuhanesque:マクルーハン理論? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%B3
--technohippy


そしてまた,彼は飛行機に乗っている間に,見積りの数字の新しい見方について考えていました。

その時までに,もし太陽が"0"の位置に置かれていたらその問題は馬鹿げているほど簡単だということをベスは見つけていて,船の位置がどこであるのかに従って,単に宇宙船の「水平方向」と「垂直方向」のスピードを少し減らしていました。彼女や他の子どもたちが前に作っていたお絵描きやアニメーションはすべて,その時に子どもたちが備えていた能力の範囲とぴったり一致していた相対性の概念を使うことによって成し遂げられました。彼女はその時心の中でいくつかの独立した考えを持つ用意ができていました。子どもたちが獲得した線形・非線形の概念に対する直感的な感覚は,科学の偉大な一般化のいくつかを後に理解するための資産となりました。

彼女の宇宙船が完成した後,ジミーを見つけて彼のDynabookに接続し,彼を宇宙戦争できっちり叩きのめしました。飽きてしまうまで。ジミーがベスほどは強くない対戦相手を探しにいった一方で,ベスは自分のDynabookで前に書いていた詩を取り出し,数行を編集して改良していました。

今,望めばいつでもどこでも使えるような"Dynabook"をベスのような子どもや子どもたちのお父さんに提供することは,現在の技術で到達可能な範囲になっています。Dynabookは,学校の図書館のように(または,ビジネス情報システムのように),未来の「知識のインフラ」を通して他の人とコミュニケーションをするのに使うことができますが,ほとんどは,このパーソナルなメディアを通して,所有者が自分自身と反射的なコミュニケーションを伴って利用されることになると我々は考えています。現在は紙やノートが使われていますが。

道具というものは媒体の操作を助けるもので,人間は「道具を作る動物だ」という決まり文句で表現されます。コンピュータも多くの人は道具だとみなしています。しかし,明らかに,本というものは道具以上のものであり,人間もツールを作る人以上の存在です...人間は世界の発明者です。人間がものを見たり言語を使う方法を知ったときから,それぞれの新しい世界は,思い描いた構造を埋め込むことのできる表現の媒体(および制約)として寄与していて,それは通常,道具の助けを借りて行われます。コンピュータはどうでしょうか? コンピュータも明らかに道具以上です。典型的なマクルーハン理論の流儀において,コンピュータのコンテンツの大部分には以前のメディアからのものが採用され,コンピュータ特有の性質はまだ発見され始めたばかりですが。

ある人は,パーソナルコンピュータは任意の記号的概念を保管し表現する媒体であると同時に,それらの記号的概念の構造を操作するための有用な道具のセットを両立させたものだと考えているでしょう。そして道具のレパートリーには新しい道具を加えることができると考えるでしょう。もう一つ考えられる要件は,書籍や印刷よりも,少なくともいくつかの点で優れていて,かつ,他の媒体よりも顕著に劣っていないことです。(前の言及は,すでに知られている商用ディスプレイデバイスを考慮することを禁止しているように見えます。)「パーソナル」というのはそのユーザによって所有され(TVよりも高価ではない必要があります),持ち運びできる(私にとってはユーザが簡単にそのデバイスとその他のものを同時に持ち歩くことができることを意味します)ということを意味します。森の中で使うこともできる,というようなことも追加する必要もあるでしょうか。

最近,人工知能の分野と,(ある程度までの)教育の分野の研究者にとって,子どもたちが世界についての彼らのモデルを獲得する方法を確かめるのが流行になって来ました。(かつては,知的な振舞いというものを人間の特性を考慮に入れない方法で模倣できると考えられていました。)ニューウェルとサイモン,パパートとミンスキー,ムーアとアンダーセンの導きに従って,今では多くの人は,子どもも大人もどうやって知識を獲得し,操作しているかについてほとんど分かっていないものに興味を持っています。中でも興味があるのは,子どもが発達の様々な段階で何をしているかについて調査を行ったピアジェ,ブルーナー,ハート,カガン,その他の人々によって代表される初期の発達とモデル構築の理論です。

子どもたちが成熟の様々なレベルで実際にどのようなことができるかだけを発見することに興味を持っている,関連の近い他のグループもあります。子どもたちは,2歳から5歳の早い年齢の間は普通考えられていた以上に学習能力が高いと最初に結論づけたモンテッソーリについても触れなければなりません。O.K. ムーアは,反応的な環境を介して,とても幼い子どもたちが読み,書き,要約することを学ぶことができることを示しました。鈴木鎮一は,3歳から6歳までの何千人もの子どもにバイオリンを弾くのを教えることに成功しました。ブルーナーとカガンは,たとえ0歳児(あるいは0ヶ月児)であっても,視覚的な区別と一般化について以前考えられていたことよりも遥かに高い能力を持つことを実証しました。

(脚注)
社会学上の理論がいかほどに、どこまで証明可能かには興味があるところです。子どもたちには素晴らしい能力があるという考えを支持する多くの証拠があるだけではなく,子どもたちは本当にバカで,学ぶためには終わりのないほど繰り返しが必要であることを示す(悲観的な精神によって集められた)証拠も同じくらい存在しています。ホーソン実験は,我々はできる限り楽観的であるべきであり,子どもたちはいつも我々を救ってくれると主張しています。


粗訳原本

赤字の部分について,ご教示いただければ幸いです。
青字でコメントを入れていきます。 --tomooda

(もう少し自然な日本語にしたい部分もあります)

And besides he had just thought of a new way to look at their figures while on the plane.

そしてまた,彼は飛行機に乗っている間に,子どもたちの指(?)を見る新しい方法を思いついていた。

見積りの数字の新しい見方について考えていた。

By then, Beth had discovered that her problem was ridiculously easy if the sun was placed at "zero", and she simply subtracted a little bit from the "horizontal" and "vertical" speeds of her craft according to where the ship was located. All of the drawing and aninations she and the other kids had done previously were accociplished by using relative notions which coincided with the scope of their abilities at the time. She was now ready to hold several independent ideas in her mind. The intuitive feeling for linear and nonlinear notion that the children gained would be an asset for later understanding of some of the great generalizations of science.

その時までに,もし太陽が"0"の位置に置かれていたらその問題は馬鹿げているほど簡単だということをBethは見つけていて,船の位置がどこであるかに従って,単にcraftの「水平方向」と「垂直方向」のスピードを少し減らしていました。彼女や他の子どもたちが前に作っていたお絵描きやアニメーションはすべて,その時にあった子どもたちの能力の範囲とぴったり一致していた相対性の概念を使うことによって成し遂げられました。彼女はその時心の中でいくつかの独立した考えを持つ用意ができていました。子どもたちが獲得した線形・非線形の概念に対する直感的な感覚は,科学の偉大な一般化のいくつかを後に理解するための資産となりました。

After getting her spaceship to perform, she found Jimmy, hooked to his DynaBook, and then soundly trounced him until she became bored. While he went off to find a less formidable foe, she retrieved a poem she had been writing on her DynaBook and edited a few lines to improve it...

彼女の宇宙船が完成した後,Jimmyを見つけて彼のDynabookをhook...し,そして気が済むまで彼を激しく叱りました。彼がそんなに手強くない敵を捜しにいっている間に,彼女は自分のDynabookで前に書いていた詩を取り出し,数行を編集して改良していました。

彼のdynabookに接続して、彼を宇宙戦争できっちり叩きのめしました。飽きてしまうまで。JimmyがBethほどは強くない対戦相手を探しにいった一方で、Bethは...


It is now within the reach of current technology to give all the Beths and their dads a "DynaBook" to use anytime, anywhere as they may wish. Although it can be used to communicate with others through the "knowledge utilities" of the future such as a school "library" (or business information system), we think that a large fraction of its use will involve reflexive communication of the owner with himself through this personal medium, much as paper and notebooks are currently used.

今,Bethのような子どもや子どもたちのお父さんに,望めばいつでもどこでも使えるような"Dynabook"を提供することは,現在の技術で到達可能な範囲になっています。Dynabookは,学校の図書館のように(または,ビジネス情報システムのように),未来の「知識の実用品」を通して他の人とコミュニケーションをするのに使うことができますが,その利用の大部分は,紙やノートが現在使われているように,このパーソナルなメディアを通して,所有者が自分自身と反射的なコミュニケーションを伴うことになると我々は考えています。

utilitiesはインフラという意味に近いかもしれません。水道や電話のような家庭向けインフラをutilitiesと言います。

A tool is something that aids manipulation of a medium and man is cliched as the "tool building animal". The computer is also regarded as a tool by many. Clearly, though, the book is much more than a tool, and man is much more than a tool builder...he is an inventor of universes. From the moment he learns to see and to use language, each new universe serves as a medium. (and constraint) of expression in which imagined structures can be embedded, usually with the aid. of tools. What about computers? They are clearly more than a tool also, though in typical McLuhanesque fashion, much of their content has been adopted from previous media, and their own attributes are just beginning to be discovered.

道具というものはmedium(?)の操作を助けるもので,人間は「道具を作る動物だ」という決まり文句で表現されます。コンピュータも多くの人は道具だとみなしています。しかし,明らかに,本というものは道具以上のものであり,人間もツールを作る人以上の存在です...人間はuniverse(世界?)の発明者です。人間がものを見たり言語を使う方法を知ったときから,それぞれの新しいuniverseはmediumとして働いています。...通常,道具の力を借りて,想像された構造が埋め込まれることのできる.... コンピュータはどうでしょうか? コンピュータも明らかに道具以上です。典型的なMcLuhanesque流儀において,コンテンツは以前のメディアからのものが採用され,特有の性質はまだ発見され始めたばかりですが。

mediumは媒体でよさそうだと思います。universeも難しいですが、世界でも宇宙でもいいと思います。

What then is a personal computer? One would hope that it would be both a medium for containing and. expressing arbitrary symbolic notions, and also a collection of useful tools for manipulating these structures, with ways to add new tools to the repertoire. Another rarely invoked constraint is that it be superior to books and printing in at least some ways without being markedly inferior in others. (The previous remark seems to disallow known commercial display devices from consideration.) "Personal" also means owned by its user (needs to cost no more than a TV) and portable (which to me means that the user can easily carry the device and other things at the same time). Need we add that it be usable in the woods? (1.7.0)

では,パーソナルコンピュータとは何でしょうか? ある人は,それが任意の記号的な概念を含んだり表現したりするmediumであると同時に,レパートリーに新しい道具を追加する方法と持ち,これらの構造を操作するための便利な道具の集りであることを望むでしょう。また,パーソナルコンピュータは少なくともいくつかの点でwithout being markedly inferior in others,本や印刷物よりも優れているということは,滅多に取り上げられることのないconstraint(?)です。(前の言及は,すでに知られている商用ディスプレイデバイスを考慮することを禁止しているように見えます。)「パーソナル」というのはそのユーザによって所有され(TVよりも高くない必要があります),持ち運びできる(私にとってはユーザが簡単にそのデバイスとその他のものを同時に持ち歩くことができることを意味します)ということを意味します。森の中で使うこともできる,というようなことも追加する必要もあるでしょうか。

ある人は、パーソナルコンピュータは任意の記号的概念を保管し表現する媒体であると同時に、それらの記号的概念の構造を操作するための有用な道具のセットを両立させたものだと考えているでしょう。そして道具のレパートリーには新しい道具を加えることができると考えるでしょう。もう一つ考えられる要件は、書籍や印刷よりも、少なくともいくつかの点で優れていて、かつ、他の媒体よりも顕著に劣っていないことです。

It has recently become fashionable for researchers in artificial intelligence and (to a certain extent) in education to examine the way children gain their models of the world. (It was once thought that a simulation of intelligent behavior could be obtained through nonanthropomorphic means.) Following the lead of Newell and Simon, Papert and Minsky, Moore and Andersen, many are now interested in what little is known about the acquisition and manipulation of human knowledge by both children and adults. Of particular interest are theories of early development and model building epitomized by Piaget, Bruner, Hunt, Kaqan, among others who study what a child does at various stages of development.

最近,人工知能の分野と,(ある程度までの)教育の分野の研究者にとって,子どもたちが世界についての彼らのモデルを獲得する方法を確かめるのが流行になって来ました。(かつて,知的な振る舞いのシミュレーションはnonanthropomorphicの手法によって得られると考えられていました。)NewellとSimon,PapertとMinsky,MooreとAndersenの導きに従って,多くの人は,今では子どもも大人もどうやって知識を獲得し,操作しているかがほとんど知られていないことに興味を持っています。中でも興味があるのは,子どもが発達の様々な段階で何をしているかについて調査を行ったPiaget,Bruner,Hunt,Kagan,その他の人々によって代表される初期の発達とモデル構築の理論です。

(かつては、知的な振舞いというものを人間の特性を考慮に入れない方法で模倣できると考えられていました。)

There is another closely related group that is interested in discovering just what children are really capable of at various levels of maturity. We must mention Moptessori, who was one of the first to decide that children were much more adept at learning during early years (2-5) than was generally supposed. O. K. Moore has shown, via a reactive environment, that even very young children can learn to read, write and abstract. Shinichi Suzuki has successfully taught thousands of children between 3 and 6 to play the violin. Work by Bruner and Kagan has demonstrated that children, even in their first year (or first [page 4]month), are capable of visual discrimination and generalization far beyond what was previously supposed. (2)

子どもたちが成熟の様々なレベルで実際にどのようなことができるかだけを発見することに興味を持っている,関連の近い他のグループもあります。子どもたちは,普通考えられていた以上に,2歳から5歳の早い年齢の間はもっと学習能力が高いと最初に結論づけたMoptessoriについても触れなければなりません。O.K. Mooreは,反応的な環境を介して,とても幼い子どもたちが読み,書き,要約することを学ぶことができることを示しました。Shinichi Suzuki鈴木鎮一は,3歳から6歳までの何千人もの子どもにバイオリンを弾くのを教えることに成功しました。BrunerとKoganの研究は,0歳児(あるいは0ヶ月児)でも視覚的な識別ができ,以前考えられていたことよりもはるかに一般化を行えることを証明しました。

BrunerとKoganは,たとえ0歳児(あるいは0ヶ月児)であっても、視覚的な区別と一般化について以前考えられていたことよりも遥かに高い能力を持つことを実証しました。

(Footnote)
It is interesting how provable a sociological theory can be. There not only is ample evidence to support the idea that children are tremendously capable, but there also exists an equal body of evidence (gathered by more pessimistic souls) to show that children are really quite stupid and require endless repetition in order to learn. The obvious Hawthorn effect says that we should be as optimistic as possible and the children will save us every time.

(脚注)
社会学上の理論がどのようにいかほどに、どこまで証明可能かには興味があるところです。子どもたちには素晴らしい能力があるという考えを支持する多くの証拠があるだけではなく,子どもたちは本当にバカで,学ぶためには終わりのないほど繰り返しが必要であることを示す(悲観的な精神によって集められた)証拠も同じくらい存在しています。Hawthorn効果は,我々はできる限り楽観的であるべきであり,子どもたちはいつも我々を救ってくれると主張しています。

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